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とりとめのないブログ・・・

税理士・中小企業診断士 篠川徹太郎事務所

カフカ 「万里の長城」

ジョージへ

卒論を送ってくれてどうもありがとう。長年の約束を守ってくれてとても嬉しかったです。また、内容も興味深いもので、久しぶりに知的好奇心が刺激されました。それで久しぶりにカフカに関する本を何冊か買って読んでみたんだけど、どうも今の私の興味は、カフカという作家をハプスブルク帝国の歴史の中で読み解くことにあるようです。そういった意味で、君の解釈とは随分と異なるわけだけど、同じ作品を読んでこんな風に感じる人もいるんだ~と思っていただけたら幸いです。

ファミリーヒストリーカフカハプスブルク近代史

20世紀初頭のウィーンで活躍したユダヤ人の文化人について、よく 「裕福な家庭に生まれ・・・」 といった記述を見かける。ウィーンのユダヤ人 = 裕福な家庭といった図式が私には前から不思議だったんだけど、ファミリーヒストリーカフカはその1つの典型なのではないかと思うようになった。もっとも、カフカはウィーンではなくプラハだけど、要するにハプスブルク帝国末期におけるユダヤ人の処遇にその秘密があるような気がする。

フランツ・カフカの祖父、ヤーコプ・カフカは1814年にプラハの南100㌔ほどの村で生まれた。小説「城」に出てくるような村ではなかったろうか。1814年といえばウィーン会議が行われていたその頃である。フランス革命からナポレオン戦争を経てずたずたになったヨーロッパ旧秩序の回復が試みられ、好色な外交官たちがウィーンを舞台に様々なスキャンダルを繰り広げていたその頃、カフカの祖父は 「村落ユダヤ人」 の次男として生まれた。

当時のユダヤ人には市民権が無く、職業・結婚・住居の自由が認められていなかった。そこで、ヤーコプ・カフカは畜殺業で生計を立てることとなった。また、腹違いの兄がいたため、次男として妻をもつことは許されていなかった。

ヤーコプ・カフカが34歳の頃、パリで3月革命が起こり、ウィーンやプラハでも暴動が起こった。守旧的なウィーン体制が崩壊し、市民社会への流れは止めようがないものとなった。ハプスブルクではその最後の皇帝であるフランツ・ヨーゼフが即位し、ユダヤ人にも広範な市民権が認められることとなった。それが1848年、ユダヤ人はいわゆる 「新平民」 として世に出ることになる。

明治維新に先立つこと20年である。

ヤーコプ・カフカはこの新しい権利をのうち結婚については最大限に活用したようだ。36歳の時に隣家の2歳下の娘と結婚、9年間で計6人の子供をもうけた。しかし、職業および住居の自由についてはその権利を行使することなく、75歳の時にヴォセク村に葬られた最後のユダヤ人としてその生涯を終えた。

フランツ・カフカの父、ヘルマン・カフカはその父とは異なり、ハプスブルクのユダヤ人に認められた市民権を存分に行使することになる。彼は新時代の子なのだ。1866年、ヘルマン・カフカは14歳の時生まれ故郷のヴォセク村を出て、二度とそこに戻ることはなかった。「乞食のような暮らし」 を強いられた子供の頃をを思い出したくなかったのであろうか。

ヘルマン・カフカが家を出た1866年、ドイツ語圏の覇権を争うプロイセン・オーストリア戦争が勃発、その決定的な戦いが 「ケーニヒグレーツの戦い」 と呼ばれているものだが、この Königgrätz は現在はフラデツ・クラーロベと呼ばれているプラハの東方100㌔ほどのボヘミアの都市である。ドレスデンを占拠したプロイセン軍は3軍に分かれて国境を越えてボヘミアに侵入したのであるが、そのときの様子が小説 「万里の長城」 の下敷きになっているというのが私の一つの解釈である。

ヘルマン・カフカは14歳で家を出て、その後の足取りは分かっていない。おそらく行商の下積みをしていたのであろう。

ユダヤ人は、誰もが同じようなはじまりをもっていた。要するにこの身一つ、行商で小銭をためる。そののち、より大きな手づる、あるいは金づるを見つけて事業に打って出る。
池内紀カフカの生涯」 P26)

ヘルマン・カフカは20歳になり、24ヶ月の兵役に従事した。ケーニヒグレーツの敗戦から6年後である。そこではみっちりと近代兵法の訓練を受け、ハプスブルクの臣民としての自覚を涵養していったことは想像に難くない。除隊後、プラハに出て商売の下積み生活を送っていたのであろう、30歳の時に結婚、そして1年後には長男フランツが生まれた。。。。

フランツ・カフカの生涯については、広く知られている。23歳の時に法学博士としてプラハ大学を卒業、当初は外資系の保険会社に就職したが、すぐに労働者傷害保険協会 (今の日本の労働基準監督署のようなものだろう) に転職、そこで官吏として勤務するかたわら、小説を書き恋をして手紙を書いて、結核のため41歳の若さで1924年に死んだ ・・・ そんな男だ。

万里の長城」 が執筆された1917年の時代背景についても一言。カフカ34歳の頃である。

第1次世界大戦が勃発したのが1914年、セルビアサラエボハプスブルク帝国 (当時はオーストリア・ハンガリー帝国と呼称していた) の後継者であるフランツ・フェルディナントが暗殺されたことに端を発する。この事件だけ見ればハプスブルク帝国内部のもめごとであって、ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争へと進展してゆく理由が良く分からない。もしも仮に、当時のハプスブルク帝国の統治が強力で、帝国内のもめごとを自ら処理することが可能であったならば、世界大戦へと進展してゆくことはなかったであろう。

しかし実際のハプスブルク帝国は弱体化し切っていた。ロシアとドイツが参戦し、1916年11月には国父と慕われてきたフランツ・ヨーゼフが死去、ハプスブルク帝国は崩壊していった。

万里の長城」 という小説がそういった時期に書かれていたということは、やはり示唆に富んでいるのではないかと思う。

万里の長城」 - テキスト解釈

この小説は印象的な書き出しで始まっている。

万里の長城の建設はもっとも北のところで完了をみた。
Die Chinesische Mauer ist an ihrer nördlichsten Stelle beendet worden.

この訳文については異論がある。というのも、原文では建設の完了については何も言っておらず、ただ壁がその最北の地において終わっていると言っているにすぎない。壁は終わっているが、建設が終わっているのかどうかは分からないのである。 また、現在完了形が用いられていることにより、断定の意味合いが強く出ている。壁はあくまでもその最北の地で終わっているのであって、そこからさらに建設という行為によって延伸あるいは補完されることは絶対にないのである。

そうはいっても次の文章を読むと、その最北の地において壁が完成し、建設という行為もやはり完了したのかと思えてくる。

南東と南西から始められた大工事が、ここで一つに合わさったわけである。
Von Südosten und Südwesten wurde der Bau herangeführt und hier vereinigt.

そうして万里の長城の建設には工区分割方式が採用されていたことが明らかにされる。工区分割方式の奇妙さが、この小説の魅力の一つになっている。訳文を引用すると、工区分割方式とは次のようなものになる。

すなわち全労働者が約二十名から成る班を組み、各班がほぼ五百メートルの城壁を担当する。隣の班は同じく五百メートルを受けもって反対側から建造をすすめてくる。担当分が完了したのち、各作業班はできあがった千メートルの城壁に引きつづいて次の工事に入るのではなく、全然別の地へと送られた。・・・・ 五百メートルの城壁は、ほぼ五年で完了する。このころ現場の者たちは精も根も尽きはてており、自信はおろか工事そのもの、また世界に対して信頼を失いかけている。この彼らをどうするか。・・・・ しばらく故里で休養して元気を回復する。国に帰れば英雄だ。誰もが彼らの話にじっと耳を傾ける。つましい暮らしの村人たちが長城の完成にいかに大きな期待を寄せていることだろう。希望に燃えたった少年のように彼らはふたたび故里と別れを告げる。いまひとたび国家の大事業に参画するという喜びで一杯だ。・・・・ 誰もが血を分けた兄弟であり、その同朋を守るための城壁を造るのだ。

しかし一方で、工区分割方式の欠点も同時に明らかにされている。

当然のことながらこの方式では各所に空隙が生じる。あとから一つ一つ継ぎたしていかなくてはならない。長城の建設完了の布告が出てからようやくとりかかった所さえあるとか、つい手つかずのまま終わってしまった個所があるとか噂された。・・・・ なにしろあまりにも宏大なので、少なくとも個人では自分の目と足で確かめようがないのである。

するとどうであろう、 南東と南西から始められた分割工事はその分割工事の最北の地において完了を、それも無数の完了をみるわけだけれども、壁の建設そのものは、工区分割方式の性質上、決して完了することはない、そしてその象徴的な場所が壁の最北の地ということになるのではないか。

では、カフカにとって壁の最北の地はどこになるのか?

カフカハプスブルク帝国の住人であったことを考えると、やはりその最北の地はハプスブルクボヘミア最北の地ということになるのではないか。そこはプラハの真北、埋めようもないキズとしてエルベ川が流れているのである。

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 プラハを中心としたボヘミアの北側はけっこう高くかつ深い山々で、南西から北へ向かってエルツ山地が、南東から北へ向かってはズデーテン山地がそれぞれ 「北方の夷狄」 に対する自然の城壁となっていたわけだが、これら山地を割ってエルベ川ハンブルクまで続いている。つまり、ボヘミアはドナウ水系ではなく、エルベ川を始めとする北方の水系に属しており、そのことが必然的に北方に対する守りを脆弱にしているのである。

国境付近のエルベ川 (グーグル・ストリートビュー

このように解釈すれば、一見したところでは整合性が見えにくいこの小説の第1文と第2文を、理解できるのではないか。 すなわち、壁はその最北の地においてエルベ川によって分断されている (終わっている)、したがって、壁を建設しようとする無数の行為も結局は不完全なものにならざるを得ないのだ、と。

壁を建設しようとする行為を、ハプスブルク帝国を保持しようとする試みであると捉えるならば、それは君主制についての省察を不可避的に含むことになるだろう。カフカ君主制の本質を印象的な筆致で描き出す。

君主制そのものは不滅だとしても個々の皇帝は、あるいは倒れ、あるいは失墜する。連綿と続いてきた王族も、いずれは栄光地に落ちて、ついには滅ぶ。民衆はこの間の闘争や苦難について何一つ知ることができない。町の広場では王の処刑が行われているというのに場ちがいな遅参者さながら、あるいは山出しの田舎者のように、ぎっしり人が群がっている横丁の奥につっ立って、手持ちの何やらをモグモグ食べているようなものなのだ。
Das Kaisertum ist unsterblich, aber der einzelne Kaiser fällt und stürzt ab, selbst ganze Dynastien sinken endlich nieder und veratmen durch ein einziges Röcheln. Von diesen Kämpfen und Leiden wird das Volk nie erfahren, wie Zu-spät-gekommene, wie Stadtfremde stehen sie am Ende der dichtgedrängten Seitengassen, ruhig zehrend vom mitgebrachten Vorrat, während auf dem Marktplatz in der Mitte weit vorn die Hinrichtung ihres Herrn vor sich geht.

君主制は不死なのである。しかしそれは静的に不死なのではなく、不断の闘争と苦難を通じての不死なのであるが、民衆にはその辺の事情が一向にピンとこない。

民衆と皇帝との間の埋めようもない距離について、カフカは様々な比喩を使って表現しようとする。曰く、絶対に到着しない皇帝の使者について、あるいは、数千年前の女帝が夫の血をうまそうに飲みほしたことが村に届いた最新のニュースであること、あるいは、役人が村人の前で既に断絶した王朝の指令をながながと訓戒すること等々、カフカの読者にはおなじみの寓話である。

民衆と皇帝との関係がかくのごときものであるにせよ、カフカ君主制を必要不可欠なものだと思っていたのではないだろうか。この小説の最後の文章は、私にはそのように読めるのである。

それだけ奇異にうつるだろうが、まさにこのような弱点が民衆を一つにする絶好の手段であるらしいのだ。あえて言うなら、我々が生きる土壌そのものである。これをことこまかに非難してみても良心を奮い立たせるわけではなく、むしろ悪い結果としてわれわれの足もとをゆさぶりかねないのだ。だからして私はこの問題にまつわる論究をいちおうここいらで打ち切りとしたい。
Um so auffälliger ist es, daß gerade diese Schwäche eines der wichtigsten Einigungsmittel unseres Volkes zu sein scheint; ja, wenn man sich im Ausdruck soweit vorwagen darf, geradezu der Boden, auf dem wir leben. Hier einen Tadel ausführlich begründen, heißt nicht an unserem Gewissen, sondern, was viel ärger ist, an unseren Beinen rütteln. Und darum will ich in der Untersuchung dieser Frage vorderhand nicht weiter gehen.

「このような弱点」 とは何か?

それは前段落において 「北京に埋没している君主制 を生き生きとした現在においてすくい上げ己の胸に抱きしめることができない、民衆の想像力または信仰力の弱さ」 - "eine Schwäche der Vorstellungs- oder Glaubenskraft beim Volke, welches nicht dazu gelangt, das Kaisertum aus der Pekinger Versunkenheit in aller Lebendigkeit und Gegenwärtigkeit an seine Untertanenbrust zu ziehen" - であることが明らかにされている。

これはもっと端的にいえば、第1次世界大戦に負けた 「弱さ」 ということができるのではないか。

そして、カフカはこうした弱さを 「我々が生きる地盤そのもの」 - "geradezu der Boden, auf dem wir leben" - であるとしているのである。

踏み込んで解釈するならば、ここでカフカは多民族共存を許すようなハプスブルク帝国の 「ゆるい」 君主制、臣民を統一して対外戦争に駆り立ててゆくような力は弱いのかもしれないが、熱狂や狂乱とは無縁の落ち着いた君主制を、ポジティブに評価しているのではないだろうか。

しかし、そうした評価は沈んでしまった太陽に対する挽歌のようなものだろう。

ハプスブルク帝国は崩壊した。それはもう戻らない。

参考文献

shinokawa-office.com