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税理士・中小企業診断士・CFP 篠川徹太郎事務所

ドラッカー 「傍観者の時代」

P.F.ドラッカーの自伝的小説 「傍観者の時代」、興味深く読みました。

原題は “Adventures of a Bystander” となっておりまして、直訳すると 「傍観者の冒険」 といったイミになる。

ドラッカーはなぜ傍観者になったのだろうか、この本のプロローグは3ページほどの短いものだが、ドラッカーがなぜ傍観者になったのか、極めて明瞭な輪郭をもって描かれているような気がする。

それは、ハプスブルグ帝国の崩壊と 「市民社会」 の始まりが同時に起こったウィーンの街において、13歳であったドラッカーが鋭敏に感じ取った「市民社会」の本性、それをドラッカーは好きではなかったということだと思う。

もうじき14歳になるドラッカーは、今や社会主義者の街となったウィーンを、後年のヒトラーユーゲントさながら、旗を押し立ててデモ隊の先頭を行進していた。その時、目前に水溜りがあったのだが、水溜りを避けるために行進の先頭が進路を曲げるなどということはあり得ないことだった、それは 「市民社会」 の無言の命令だった ・・・・ ドラッカーはそうした無言の命令が本当に嫌いだったんだと思う。

水溜りは好きである。この年になっても好きである。じゃぶじゃぶいう感触がたまらない。しかも、その日の水溜りは、いつもならばわざわざ入りたくなるような水溜りだった。しかし、私が選んだ水溜りではなかった。後に続く行進によって強制された水溜りだった。

そしてドラッカーは、それが自らの定めであるかのごとくウィーンの街を去り、フランクフルト、ロンドンそしてアメリカへと冒険の旅を続けてゆく。

それはまさしく 「冒険」 というべきものではなかっただろうか。 君主制が崩壊し、ドイツにおける 「市民社会」 がナチスによってグロテスクな相貌を見せるにつれ、あるべき社会のあり方を探し求める冒険の旅であったということではないだろうか。

そしてドラッカーは 「企業」 と出会う。

1946年に発表された「企業とは何か」 “Concept of the Corporation” において、ドラッカーはゼネラルモータース (GM) についての広範な分析を通じて、産業社会のあり方に切り込んでゆく。その際の切り口が 「分権制」 である。

ドラッカーはこうした 「分権制」 を、君主制あるいは封建的身分関係が崩壊した後の、あるべき社会のあり方への手がかりとしているのではないかと思った。そうであれば、ドラッカーは企業運営の根本的な部分についての問題を提起しているのではないかと思った。そしてそれは、今なお解決されていない問題でもある。

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